徳川家康の自戒画は嘘だった?しかみ像が暴く三方ヶ原の衝撃真相
しか み 像として教科書や歴史特番で親しまれてきたあの異様な肖像画を巡り、いま歴史学界に大きな地殻変動が起きている。苦渋に満ちた表情で右手を頬に当て、膝を抱え込む小柄な男。戦国最強と謳われた武田信玄に完敗を喫した若き徳川家康が、慢心を戒めるために己の無様な姿を描かせた――そんな筋書きを信じて疑わなかった人は少なくないだろう。だが、愛知県名古屋市の徳川美術館に収蔵されているこの奇妙な名画の来歴を丁寧に洗い直すと、私たちが慣れ親しんだ教訓ドラマとはまるで異なる真相が浮かび上がってくる。
近年の厳密な史料批判によって、通称として定着したしか み 像の成立背景には、江戸時代を通じて巧妙に積み重ねられた神話化のプロセスが存在したことが判明してきた。敗軍の将が現場の生々しい屈辱を即座に絵師に記録させたというエピソードは、あまりに劇的で美しすぎる。だが、定説という名の分厚い埃を払った先に現れたのは、敗北の悔恨などではなく、近世という時代が希求した「神君」の新たな精神性だった。
敗戦画ではなかった?最新研究が解き明かす制作時期と真の意図
定説はあっけなく崩れ去った。長年、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い直後に描かれたと信じられてきたこの肖像だが、近年の研究成果が積み重なった現在、同時代に描かれたものではないという見解が学術的な共通認識となりつつある。支持体の絹や顔料の材質、さらには着衣の様式や描法に至るまで、戦国末期のリアリズムとは明らかな乖離が認められるからだ。
筆跡や構図を追究した専門家たちの鑑定によれば、実際の制作時期は家康の没後、早くとも17世紀半ば以降、場合によっては江戸中期まで下るとみられている。つまり、戦場から逃げ帰った家康が絵師を呼びつけ「今の余の顔を描け」と命じたという語り口そのものが、後世に創出されたフィクションだった可能性が極めて高い。
では、なぜこれほど陰鬱な姿がわざわざカンバスに留められたのか。有力な仮説として浮上しているのが、仏教美術における「出山釈迦図(しゅっさんしゃかず)」の影響だ。過酷な苦行を終え、骨と皮ばかりになりながら山を下りる釈迦の姿に、泰平の祖となった家康の精神的苦衷を重ね合わせ、あえて苦悩の表情を与えることで崇高な徳を表現しようとしたという見方である。敗戦の戒めではなく、神仏と同化しつつあった天下人の内面を称えるための宗教的装置。それが、現代の歴史家たちがたどり着いた驚くべき真実の一角だ。
徳川家康三方ヶ原戦役画像という正式名称の背後に潜む謎
美術館の展示キャプションを注視すると、奇妙な事実に気づく。現在、所蔵元である徳川美術館における登録上の正式名称は『徳川家康三方ヶ原戦役画像』とされている。だが、この物々しい画題自体、江戸幕府が編纂した公式記録や尾張徳川家の古い蔵品目録にはどこにも記されていない。
尾張徳川家に伝来した当初の記録を辿ると、この絵は単に家康の特異な姿を描いた小品として扱われており、「三方ヶ原」の文字が結びつけられたのは幕末から明治期にかけてのことだった。コレクションを管理していた旧武士階級や近代の顕彰運動のなかで、劇的な軍記物語のワンシーンと結びつけられ、キャッチーなドラマとして仕立て直された経緯がある。
美術品に新たなラベルが貼られるとき、そこには往々にして時代の要請が働く。明治という激動期、近代国家としての統合を急ぐ日本において、挫折を乗り越えて大業を成し遂げた不屈のリーダー像が強く求められていた。その結果、無名の苦悩図が「歴史的敗北の自戒画」へと華麗な転身を遂げたのだ。
武田信玄に完敗した三方ヶ原の戦いと「脱糞伝説」のカラクリ
そもそも、家康にとって三方ヶ原の戦いとはどのような記憶だったのか。甲斐の虎・武田信玄が率いる騎馬軍団の前に、徳川・織田連合軍は赤子のようにひねり潰された。わずか2時間足らずの戦闘で味方は総崩れとなり、家康は命からがら浜松城へと逃げ帰っている。
この敗走劇に付随して語られるのが、あまりにも有名な「脱糞伝説」だ。恐怖のあまり馬上で粗相をし、城に戻ってから問い詰められた家康が「これは焼き味噌だ」と言い逃れをしたという俗説である。この逸話と絵画のエピソードは長らくセットで消費され、家康の人間臭い魅力を語る鉄板のネタとして愛されてきた。
しかし、近年の史料調査では、これらのエピソードの多くが江戸時代中後期に書かれた通俗軍記や巷間の巷説に端を発していることが暴かれている。天下無敵の軍神・信玄の強大さを際立たせるための演出であり、同時に、そんな強敵に打ちのめされながらも最終的に天下を掴んだ家康の偉大さを逆説的に強調するための講談的なプロットに過ぎなかった。
大河ドラマ『どうする家康』とメディアが拡散した敗北者のリアル
歴史の虚飾が次々と剥がされる一方で、映像メディアはこの肖像が持つアイコニックな魔力を巧みに再解釈してきた。大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤演じる主人公が三方ヶ原で絶望の淵に叩き落とされる展開において、この肖像画のモチーフが重要な視覚的ギミックとして引用され、大きな話題を呼んだ。
番組では、旧来の「自戒のために描かせた」という解釈を一歩押し進め、自らの無力さに打ちひしがれる若き指導者の脆さと葛藤を浮き彫りにする演出が採用された。放送後、NHKオンデマンドで該当回を繰り返し視聴する歴史ファンが続出し、SNS上では美術史の知見とドラマの演出意図を比較検証する議論が白熱した。
テレビ番組や歴史ドキュメンタリーが果たす役割は決して小さくない。史実としての正当性を重んじる学術界と、感情移入可能な人間像を求めるエンターテインメントの狭間で、この奇怪な絵画は常にインスピレーションの源泉であり続けている。フィクションの皮を剥いだとしても、絵そのものが放つ凄まじい緊迫感は、何百年経っても色褪せない。
日本近世美術史と文化財保護・学術出版産業が直面する新時代
肖像画の制作意図が塗り替えられたことは、日本近世美術史の研究現場にとどまらず、教科書や図録を手掛ける文化財保護・学術出版産業にも小さくない波紋を広げている。長年「定説」として印刷され続けてきた解説文を、どのように改訂すべきかという実践的な問いだ。
過去の展覧会カタログを読み返すと、大半が「三方ヶ原で敗れた家康が描かせた」と無批判に記していた。しかし現在では、学術的誠実さを担保するために「伝承では三方ヶ原の戦役とされるが、後世の制作とする説が有力」といった慎重な補足が不可欠となっている。歴史を確定した過去としてではなく、絶え間ない検証によって更新される動的なプロセスとして捉える姿勢が、教育や出版の現場でもスタンダードになりつつある。
偶像を破壊することは、決して先人たちの遺産を貶める行為ではない。絵画が背負わされた幾重もの物語を解きほぐし、いつ、誰が、どのような思惑でそのイメージを必要としたのかを問うこと。それこそが、歴史という生きた対話に私たちが参加するための唯一の道筋なのだ。奇怪なポーズで沈黙を続ける家康の視線は、今もなお、安易な物語に飛びつこうとする現代の私たちを鋭く射抜いている。 (出典: しか み 像(Yahoo!ニュース))